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禎一馬 朝崎郁恵――奄美の表現者という言葉に相応しい、シマ唄の第一人者。彼女独特の節回し、いわゆる“ぐいん”は奄美古来より伝わる技法で、今では使える唄者は少ないという。
年明けに風邪を患ったという朝崎さんだが、お会いしてみるとお元気そうで、「そういう時こそ奄美の食べ物が恋しい」と話してくれた。

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朝崎郁恵の、シマ唄とのお付き合い


 ――朝崎さんとシマ唄とのお付き合いの歴史から聞かせてください。

朝崎: それはもう、いつからかは分からないです。胎教ですか?母のお腹の中にいた頃から聞いていましたから。おぎゃあと生まれてからは、子守唄みたいに父が三味線を弾いて、母が歌ってという環境でした。 7、8歳くらいになると島での祝い事の席に呼ばれて、唄を歌っておいしいものをご馳走になりました。その時代はお米も少なくて、そてつのおかゆを食べていたので、とても嬉しかったことを覚えています。本格的になったのは、10歳を過ぎて。福島幸義先生に習い始めてからでしょうか。何百年に一度という凄い師匠なんですよ。
きっかけは大正から昭和にかけて、シマ唄が無くなりそう、という時期があったんですね。そこで当時、私の両親は大阪の天王寺に住んでいたんですけど、父が映画館を借り切ってシマ唄大会を行ったそうです。その時に参加した青年の1人が、福島先生だったんですよ。
その後島へ帰って再会して、父が話をつけてくれました。私と武下和平さんは一番弟子だったんですよ。娯楽の無い時代でしたから、戦後は周りの島々や村を周りました。徳之島なんかは、まだ電気も無い時代でした。ぶら(ほらがい)で触れ回って人々を集めたんですね。その頃私は古仁屋に住んで、父が鍼灸院を開業していて、その手伝いをしながら歌っていました。当時の「えらぶの海」という記録映画にも出演したんですよ。私のシマ唄の原点ですね。深くて、何日もかかる話なんですよ。

 ――その中で、当時の思い出を少し聞かせてください。

朝崎: 奄美のシマ唄は実話が多いんです。先生は研究熱心で、土地土地でお年寄りから話を聞いて歌っていました。例えばじょうきくじょなんて、おさいのいこんまたで起きた事件の唄なんです。
だから奄美のシマ唄は大島紬と共に、私達のご先祖様が残してくれた宝物なんですね。大島紬の縦糸と横糸が織り成す絣は、シマ唄のぐいんのようなものですから。



シマ唄は、島の祖先の魂

 ――シマ唄のぐいんについて伺いたいのですが?

朝崎: 今の若い人たちは、もっと歌いこんで行けばぐいんが入るようになると思いますよ。ぐいんは魂から出るものですから、教えられるものではないんです。何十年と積み重ねないと、出ないものなんですね。シマ唄には何百年、それこそ千年なんていう積み重ねがあって、でも譜面がなく、口伝で伝えてきたものなんですよ。
そして時代性があります。唄の背景には、平家、琉球王朝、薩摩という各時代があって、その都度作られて来たものなんです。時代時代の生活や、人々の気持ちを即興で唄にして残してるんです。
ホントに尊敬しちゃいますね。私も70歳になったんですけど、何でこんな歌を作ったんだろうって、学問もしていない当時の人々が…って。
そう思うともう、大事にしなくちゃって、愛おしくなります。唄を粗末にしちゃいけないって気持ちになりますよね。私達の島の祖先の魂なんだよって、これを忘れちゃいけないって思うんです。そういった事を教えて、初めてシマ唄を教えているって言えるんです。だからヤマトんちゅが聞いたら、ブルースやゴスペルって言いますね。今、ヤマトんちゅはシマ唄にすごく注目していますから。音楽家の人たちは、特にね。

 ――確かにその通りですね。

朝崎: だから私が、文字としても残っていないこの唄を伝えていかないとって思うんです。奄美の歴史って、薩摩の時代に全て焼却されていて、定かじゃないんですよ。そこで島んちゅはどうしたか、というと、唄にして残したんですね。唄にして残っているから、誰も何所へも持っていけないの。だから唄の背景に生活が残っているんですよ。だから私は語れるんです。それは強いものですよ。


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